2010/05
二宮忠八 飛行機開発君川 治


写真は
所沢航空発祥記念館にある二宮忠八の説明

 鳥が空を飛ぶように空を飛びたいと考えた人は昔から沢山おり、古くはレオナルド・ダ・ヴィンチの設計図は有名である。ライト兄弟が最初に飛行機で飛んだのは1903年だが、飛行機の研究はそれより100年以上前から多くの研究者によって設計・実験が重ねられている。暫くその足跡を眺めてみる。

 1809年 イギリスの応用物理の大家ケリーは「やがて人間や貨物を乗せて空を飛ぶ時代が訪れるだろう」と述べた。航空の父

 1871年 フランスのペノーはゴム動力単翼の模型飛行機を飛ばした。近代飛行機の先駆け

 1884年 ロシアのモジャイスキーは20馬力の蒸気エンジン2基をつけた飛行機で、ジャンプ台のような滑り台を使用して150m飛んだ。

 1890年 フランスのアデールはコウモリ翼の飛行機で50m飛んだ。世界初の自力離陸動力飛行機

 1891年 ドイツのリリエンタールが固定翼のグライダーで350m飛行した。

 1903年 ライト兄弟が世界初の飛行 に成功。ライト・フライヤー号は、全長6.4m、全幅12.3m、重量274kg、エンジンは4気筒12馬力、機材は木と布、構造は複葉。1回目の飛行12秒、36.6m。4回目は59秒、260m。
 
 5年後の1908年にライト兄弟は2時間20分、125kmの飛行に成功し、その後、飛行機開発熱は再びヨーロッパに拡がり猛烈な開発競争が繰りひろげられた。
 1914年の第1次世界大戦勃発の年、各国の飛行機保有台数は、独260機、仏155機、英65機である。
 ライト兄弟がフライヤー号で世界初の動力飛行に成功してから100年が経ち、ライト・フライヤー号の復元など各地で色々の催しが行われた。500人乗りのジャンボジェットや超音速コンコルド旅客機が開発されたが人類が始めて空を飛んでから未だ100年を越えたばかりだ。宇宙ステーションに長期間滞在するなど航空・宇宙技術の発展の速さは驚きである。
 航空機に関する博物館や科学館は沢山あるが、先ず埼玉県所沢市にある「所沢航空発祥記念館」に行ってみた。ここは国産機による初飛行の行われたところである。西武新宿線の所沢航空公園駅を降りると駅前広場にYS-11の実機が置いてある。ここから所沢航空記念公園が始まり、記念館や旧滑走路の大きな花壇があり、飛行に関する多くのモニュメントが設置されている。
 記念館の内部には日本の航空機開発の歴史やこれに関った人たちの紹介、歴史的な飛行機のレプリカ(実機大)、管制塔の役割などの説明がある。ここに日本の飛行機開発の先駆けとして二宮忠八が紹介されている。

 二宮忠八は愛媛県八幡浜の出身で、子供の頃から凧作りに得意な才能を持っていた。家が倒産したため丁稚奉公しながら凧作りをし、それを売って小遣いや家計の足しにしていた。成人して陸軍の薬剤師となり、従軍の途中の峠で鳥の飛行に注目し、以後仕事の合間に飛行機の研究開発をコツコツと進めた。
 傘を持って橋の上から飛降りて浮力の実験をし、ゴム動力の鳥型模型飛行機を作って安定に飛行する実験を重ねた。プロペラ推進の動力さえ有れば人間を乗せた飛行機が作れると自信を深め、オートバイ用の12馬力ガソリンエンジンを使った飛行機の設計図を完成した。1891年のことで、ライト兄弟の初飛行より12年も早い。
 一介の薬剤士官には飛行機を作る資力は無いので、「陸軍で飛行機を作って欲しい、戦争に役立つ筈」と上申書を作成して、当時の上官長岡実連隊長に提出するが返事も無い。諦めきれない二宮忠八は再度、広島の陸軍師団を通じて上申書を提出するが却下となる。
 二宮忠八の飛行機設計思想は固定翼飛行機である。
 ・凧は風を受けて上昇する
 ・鳥は翼を固定して滑空する
 ・玉虫は固定翼と変動翼を活用している
 ・前進する動力があれば固定翼で上昇する
 ここに到達するまで、鳥や玉虫の飛行について多くの研究をしている。
 二宮忠八は努力家で研究熱心な人物であった。陸軍が忠八の上申書を実施に移していればライト兄弟より先に飛行に成功していたかもしれない。しかし、歴史にタラレバは無意味である。
 二宮忠八は現役を退いた後、郷里出身の白川陸軍中将(陸軍士官学校長)に古い設計図を説明した。陸海軍や学会で調査したところ、理論的にも優れたものであり、日本の航空史上、更に世界の航空機史上にも残る研究と評価されて、金杯・勲章などの栄誉に浴することとなった。
 上申書を抹殺した元上司の長岡連隊長は、その後陸軍参謀となり、フランス・ドイツの航空機を日本に導入した功績により中将まで昇進した。長岡実は日本の航空機開拓の父と言われているが、これは許せない。しかし世界中に未だ飛行機などない時代に専門外の一薬剤士官の上申書を一笑に付した気持ちは解らないことも無い。

 二宮忠八は薬剤師としても優秀であり、一等薬剤士官にまで出世していたが、自力で資金を調達するには民間人でなければ出来ないと、陸軍を辞任して大阪の製薬会社に就職する。製薬会社の仕事に従事しながらも飛行機の研究をし、独り試作機の製作を続けるが、ライト兄弟の飛行のニュースを知ってからは飛行機のことは断念して製薬会社の事業に専念し、支配人から常務取締役まで昇進した。二宮忠八が実質的な会社経営の責任者であったこの会社は現存する大日本製薬(現大日本住友製薬)である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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